経済・政治・国際

「デフレはなぜ怖いのか」…大恐慌と19世紀のデフレ(原田泰/2004年/文春新書)

先日、ガルブレイスの「大暴落1929」を面白く読んだが、あの大恐慌の原因については複合的な要因が絡み合って起こったものとして、必ずしもすっきりした説明にはなっていなかった。反面、フリードマンがマネタリストの立場から金融政策の失敗が大恐慌を招いたということを言っていたらしいことが気になっていた。

元経済企画庁のエコノミストだった原田泰氏は日本の代表的なマネタリストと言ってもよさそうな人だが、なるほどマネタリストの見方は大恐慌の原因を指摘するにシンプルで政策当局(FRB)に対して容赦ないもののようである。

 

氏はフリードマンらの研究成果を踏まえて1930年代の大恐慌について説明しているがFRBの金融引き締めが株式相場の崩落後に銀行の連鎖的な破たんを招いたということらしい。問題は、むしろ、その後もFRBが金融緩和策を取らなかったためにデフレスパイラルが止まらず、大恐慌になってしまったことにあると言っているようだ。

 

FRBが金融緩和策を取らなかった原因を探ると当時の各国政府が金本位制をとっていたために金融緩和を行うと自国通貨の価値が下がり、金が外国に流出してしまうという制約があったことに行き着く。

 

デフレーション(およびインフレーション)は純粋に金融的な現象というのがマネタリストの経済観の前提にある。需給ギャップ(有効需要の不足)もデフレの本質というよりはマネーサプライの縮小による結果だというのが彼らの考え方のようである。

 

また、19世紀の後半にはマネーサプライが伸びていたにもかかわらず物価が下落していたことについても、人々が豊かになる過程で現預金を保有する傾向が高まり、貨幣の流通速度が低下したことから奇妙に見える現象が生じたが、結局はマネーサプライの更なる増加によって、デフレが終息したとしている。日本の某通俗エコノミストの所論、戦争と革命の時代にはインフレ、それがない時代はデフレというわけのわからない話よりは説得力がある。

 

さて、現代では通貨は金の制約を受けない。金本位制は過去のものとなっているわけであるが、だからと言って、金融政策当局(中央銀行等)が適切にマネーサプライを増やす政策を取らなければデフレを克服することができない場合もありうる。バブル崩壊後の90年代の日本経済の低迷は、日銀の政策の失敗のためだということにもなるだろう。政策金利が低く、利下げの幅が小さくとも中央銀行は貨幣を印刷してででも国債等を市場で買い入れること(買いオペ)によってマネーサプライを増やすべきだということになる。

 

経済学の理論はおおよそのコンセンサスというか、研究者間で理論体系が共有されているものと思っていたが、どうなのだろう。門外漢には、こうした所論がどこまで正しいものなのか、研究者間でどれほどコンセンサスのとれているものなのか、わからないが、マネタリストのもっている自由主義的な経済観は魅力的である。

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CompetitiveからCompetentへ

竹中平蔵と田原総一郎の対談が書籍として発行された(「ズバリ!先読み日本経済」200810月アスコム刊)。小泉・竹中による構造改革が格差拡大などと批判されており、来るべき総選挙の争点にもなるだろうが、その改革の是非を検証し、さらに日本経済を活性化する処方箋を田原氏が竹中氏に問う内容となっている。

そのうち処方箋について竹中氏が語った中にイノベーションの観点から興味深い見方があった。技術進歩について、氏は従来「フォークリフトの技術進歩」だったのが、今は「マイクの技術進歩」になって来ているという。フォークリフトというのは東大の先生が使っても、一般人が使っても同じように便利で効果がある。米を炊くための電気釜もそうだという。

ところがマイクの技術進歩というのは歌の上手い人が使う場合と、下手な人が使うのとでは大きな差が出てしまう。パソコンも私のようにメールやインターネットくらいしか使わない人間にとってと、もっと高度な使い方をするエンジニアやクリエーターにとってとでは技術進歩の意味合いというか効果が大きく違ってくる。

いわばデジタル型の技術進歩というのは、そういう「マイクの技術進歩」になるのだそうだ。つまり使い方、ひいては使う人の能力や技が非常に重要なポイントになるということである。技を磨くためには教育が必要で、Competitiveになることから、Competentになることに教育の目的も変えていく必要があるという。

Competitiveとはパソコンの使い方でいえば、WORDExcelといったソフトウエアを如何に早く、うまく使いこなすかという競争力であるが、Competentというのは、それらのソフトの本質をよく理解した上でソフトの技術進歩にも十分対応していける応用力を含んだ競争力を言おうとしているようだ。デジタルな技術進歩では、あらゆることが起こりうるのであり、何が起こっても対応できる能力を養うような努力が必要ということである。

もうひとつイノベーションの観点から面白かったのはMining Minersという言葉である。Minerというのはアメリカ西部のゴールドラッシュの時代に金鉱を掘り当てようとした人たちを指すが、それをMining(掘り起こす)というのは、世の中の大きな動向の関連需要を見つけようということらしい。実際にゴールドラッシュの時に金のナゲットを入れるために頑丈なポケットを備えたジーンズで大当たりしたのがLevi Strauss& Co.(リーバイス)だったことは有名な逸話だと思う。

竹中氏いわくグローバリゼーションは少子高齢化していく日本の唯一最大のチャンスであり、ドメスティックで資本力やブランド力の小さい中小企業にも、いろいろなチャンスがあるはずとのことである。本書では、日本という国が官僚機構をはじめとして既得権益で固まって変わろうという意思を失った中年期症候群に侵されていることが縷々述べられている。イノベーションの重要性はますます増していくことだろう。

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「大暴落1929」ジョン・K・ガルブレイス

邦訳の前書きによれば、本書が書かれたのは1997年のことのようである。アメリカ経済はIT革命による生産性の向上と言われる現象を背景に90年代の繁栄を謳歌していたが、ガルブレイスは「現在のアメリカ人が本書に書かれているような投機熱にとりつかれていることは、無責任な楽観論にとらわれていない人の目には、火を見るより明らかなはずだ」と警鐘を鳴らしている。

90年代の好況時には、アメリカ経済は景気循環のない新たな段階に進化したなどという議論さえ出てきたが、その後、ITバブルは萎むに至った。90年代はITのお陰かどうかは別として労働生産性は向上したのかも知れない。しかしながら、同時に一般の労働者の平均賃金、給与は低下したのではなかろうか。労働生産性は向上したが労働分配率は低下したのではなかろうか。

いずれにせよ、共産圏の自由主義経済化と、それに伴うアメリカへの覇権集中=一極化によって、世界経済のドルへの依存、アメリカ市場への依存が高まった。ITバブルの萎んだ後も金融派生商品による信用創造などでカネ余りは更に続いた。しかしながら「この現象は何度となく繰り返されてきた」とガルブレイスが書いているように、カネ余りによる好況も、サブプライムローンの焦げ付きに端を発して、クレジット・デフォルト・スワップで火種が拡大しかねない金融危機に転じたわけである。

「大暴落1929」には、かの大恐慌にまつわる様々なエピソードが綴られている。あの時代には、企業の水平的な統合を目指したM&Aが一種のブームになったことや、会社型投資信託という投機商品が登場したことによって株式市場が活況を呈していたという背景があった。個々のエピソードから浮かび上がって来ることは、こうしたブームを経験すると人々は著しく楽観的になり、ひと儲けできると考えることである。それはバブルが突然、はじけてしまうまで増幅していくもののようである。

「金利や信用供給よりもはるかに重要な役割を果たしたのは、時代の空気である。大規模な投機が展開されるためには、普通の人でも金持ちになれるのだという楽観的で揺るぎない自信が行き渡っていなければならない」とガルブレイスは述べている。かつ、「ブームというものは必ず終わるのであって、わからないのは、いつまで続くかということだけである」。

現今の金融危機は各国政府が市場に政策的に介入するという意思を表明したことによって、一定の落ち着きを見せているようである。更に酷いことが起こりうるかも知れないが、この連休までの間には、とりあえず本当に危機的なことは起こっていない。しかしながら、投機の暴落と不況とはまた別のことである。金融機関の信用供与縮小や、心理的な要因による消費の冷え込みによって、実体経済が悪化することは避けられないであろう。

1929年の証券市場大暴落に続いて起こったことは長年に渡る大不況であった。その原因はガルブレイスが本書を書いた時点でも「いまだにはっきりしていない」とされている。当時は現在のような経済統計が不十分であったことから、今後もはっきりしないのかも知れない。フリードマンもマネタリストの立場から大恐慌の原因を分析していたと思うが経済学者のコンセンサスとはなっているのかどうか知見がない。

はっきりしたことは言えないながらもガルブレイスは、大暴落の後に続いた大恐慌について、経済活動が下降局面に転じた理由と、不況がその後十年に渡って続いた理由とを分けて考えたほうが良いとして、なぜ経済が減速したかについては在庫投資が過大になったと推定されること、実体経済面での需要が消費よりも設備投資に依存していたと推定されることなどを紹介している。いわば実体経済には大暴落に至る前から減速の兆候があったということであろう。

不況がどうして長く続いたかについては、当時のアメリカ経済の構造的な要因を紹介している。所得分配が偏った経済で一部の富裕層の消費に依存していたこと、事業会社から持ち株会社への配当を優先せざるを得ない企業構造が設備投資を控えさせデフレ・スパイラルを加速したこと、経営基盤の脆弱な銀行が連鎖的に破綻したことなどを挙げている。

そうした要因は現在の危機的な局面に共通することも、しないこともあるだろう。ただ、2008年の年初に言われていたことであるが、米国の景気が減速しても中国などの新興経済大国の成長によって世界経済全体では好況が続くだろうとした「デカップリング論」は、どうやら当てはまらないように見える。気をつけないといけないことは「金融上の判断と政治上の配慮は逆方向に働く」ため、「事態が悪化していると知りながら」人は「状況は基本的に健全である」という言葉を口にするのだとのガルブレイスの指摘である。

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【一橋大学公開講座】「地球環境・エネルギー問題と日本企業」

 「日本企業の経営課題」の第四回目は、橘川武郎(きっかわたけお)教授による「地球環境・エネルギー問題と日本企業」。先生は経営史が専門でありながら環境・エネルギーに係る政府の専門委員かなにかをされているそうで、『プレジデント』誌にも発表されてきた論点を講義された。

 結論的には、エネルギー問題や温室ガスを中心とする環境問題に対しては、短期・中期・長期のそれぞれの対応策が必要とのこと。短期的には、既存の省エネ技術の徹底とこれを世界に広めることによる貢献。もう少し中期的には、カーボン・ニュートラル効果の大きいセルロース由来のエタノールの開発など。長期的には省エネと新エネルギーを含めた技術革新といったことになる。エネルギーや環境に係る卓越した技術を開発していくこそが、今後の日本のプレゼンスを高め、セキュリティにもつながる強みとなるというお話であった。

 この技術革新という観点からすると、現在の京都議定書が依拠する国別の努力目標割り当てというスキームには問題点があるとのこと。二酸化炭素の大排出国である米国、中国、インドが参加していないことも問題であるが、参加国の間で、排出量の制限の厳しい国から緩い国に生産活動が移転することによって、かえって世界全体で排出量が増えてしまう「炭素リーケージ」の可能性がある。また、リーケージが起こらないにしても、排出権取引は、技術革新に使われるべき資金が流出することでもある。

 そうしたことから、国ごとに目標を設定するのではなく、産業別セクター毎に全世界で削減目標に取り組む「セクター別アプローチ」を日本は官界、経済界で提唱しているとのこと。ただし、国家や国連という強制力や調整力なしに、業界の自主的努力で実効性のある活動ができるのか疑わしいことが、このアプローチの問題点であるとのこと。よって、COP(Conference Of the Parties/締約国会議)という国際的な公的組織の指導を取り入れての、セクター別アプローチが望ましいだろうというのが教授の見解であった。

 余談になるが、炭素リーケージに絡んでグローバリゼーションによる国内産業の「空洞化」について会場から質問があった。これに対して教授は、現在、競争力ある企業に見られるのは「グローカリゼーション」であり、ノキアやトヨタなどを見ても、マザー工場や研究所などのコア・コンピータンスの拠点を国内に置きながらの国際的な事業展開であることを指摘された。また、たとえば日中間の経済について見ると、付加価値の高い部品を国内で生産して、それを使って中国で製品を組み立て、完成品を逆輸入するというパターンがあり、生産の海外移転というよりも新しい国際分業が形成されているという指摘もされた。

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「不確実性の経済学入門」

 週刊東洋経済9月6日号の特集記事だが、面白かった。株式や為替の相場の値動きなど、経済の動きは実は全体の5%しかない特異な変動によって全体の趨勢が特徴づけられているそうである。そうした特異な変動は金融工学が依拠する「正規分布」では、極めて稀にしか(何万年に一回など)起こらないので無視されてしまうのだそうである。金融工学への貢献によってノーベル賞を受賞したマイロン=ショールズとロバートー=マートンが創設したヘッジファンドがあえなく破綻したのも金融工学の根本的な限界に真因があるという指摘である。

 この記事は金融工学を批判するために書かれたものではないのだが、不確実な出来事は計算して予想することはできないし、人間の不確実性の認識は非対称の歪みがあるということは重要だろう。経済の実際の変動をトレースできるといわれている確率分布は「べき分布」だそうであるが、これは正規分布のように実務に応用が利く形で数学的に処理できないそうである。経済や社会現象は、多数の情報が錯綜し、個々人の主観的判断が入り込む状況で形成される極めて複雑なものであり、ゆえに、専門家でも知りうる情報・知識はけっして十分ではないし、もともと人間の認知能力には「認知の歪み」という限界があるという。

 そうした不確実性の観点から、社会現象を読み解くときに重要なポイントが三つあるそうだ。一つは、人間は不確実性に直面すると、確実性を求めて保守的な行動を取る。「流動性の罠」や「過剰なリスク管理」はそうして起こる。二つめに、楽観的な人々は「自分だけは成功する」と不確実性に挑戦し、大多数の人は失敗するが、ごくまれに成功し、起業家などになる。成功した人の例ではなく、挑戦した人の平均の視点で考えることが必要。三つ目に、不祥事や金融危機などを予防するため、世の中を規制でがんじがらめにし、不確実性を減らそうとすると、正の不確実性=起業やイノベーションが停滞するというジレンマを抱える。建築基準法の改正に伴う「官製不況」が好例である。

 不確実な出来事を予測したり、不確実性を合理的に減らそうとすることは出来ないということを言っているので、それこそ金融工学のように積極的に役に立つわけではないが、処世の知恵として、なかなか面白い知見が展開されている記事であった。

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サムスン疑獄

 今日、テレビ朝日のサンデー・プロジェクトで取り上げられていたが、サムスン電子は世界でもトップレベルの優良大企業であり、財閥としてのサムスン・グループは韓国のGDPや税収の約2割を占める韓国きっての大企業である。グループ総帥であったイ・ゴンヒ前会長は、サムスン電子をして、いち早くグローバル市場に安価で高品質の製品を供給するという戦略転換を進め、今日の大を成したカリスマ経営者であった。

 そのイ・ゴンヒ前会長の指揮の下、サムスン幹部がおおがかりな贈賄工作を行って来たということが、昨年11月に元幹部の告発によって明らかになった。どうも特定の請託の対価としての贈賄ではなく、政治家や検察、国税庁などの行政機関幹部によしみを通じておく、という趣旨の「餅代」であったらしいが、韓国に特有の事情も見え隠れする。

 かの国では、歴史的に財閥は政府によって大きな影響を受けて来たといえそうである。韓国では政権が交代すると新政権が前政権を糾弾し社会的に抹殺することが多々見られた(チョン・ドファン氏、ノ・テウ氏など)が、前政権にすり寄っていた財閥も手痛い仕打ちを受けることになる。か、といって時の政権から距離をおけばそれはそれで睨まれるもとになる。また、1997年に起きた通貨危機で韓国は一時IMF管理下におかれるような危機的状況に陥ったが、左翼的と言われるキム・デジュン政権からノ・ムヒョン政権の下で財閥による資本集中を弱め、企業統治を近代化する方向での改革が進められた。

 こうした財閥にとって厳しい政治環境の下で、サムスンは「餅代」を有力者に配っていたということのようであるが、イ・ゴンヒ前会長はこの疑獄発覚の前に、別の事件で起訴され有罪との判決を受けている。それは、サムスン・グループのアミューズメント・パークであるエバー・ランドの転換社債の不正譲渡に係る事件であった。要は、エバー・ランドという非上場企業の株式を支配すれば、サムスン・グループ全体の支配もできるというグループ企業間の株式持ち合い構造を背景として、エバー・ランドの転換社債を不当に安い価格でイ・ゴンヒ前会長の子息のイ・ジェヨン氏に譲渡したというものである。目的は、当然、財閥の世襲を低コストで行うことであったろう。

 したがって、脱税と背任という二つの容疑で立件されたのだが、判決は脱税のみ執行猶予付きの有罪で背任については無罪とされた。サムスンがあまりに韓国経済にとって巨大な存在になったことと、餅代が効いたのかも知れないが韓国国内でも、この判決については疑問視する向きがあるようである。

 昨年、大統領選という一種、権力の空白期を狙っての元幹部の告発によって明らかになった贈賄疑獄事件もサムスン寄りの結末になるのではないか、とも言われている。しかしながら、番組の中では「王朝資本主義」という言葉が使われていたが、韓国経済の今後の発展のためにも所有と経営の分離ということが課題になるのではないか。儒教による長幼の序、韓国の社会的な伝統が背景にあるだけに一朝一夕には変わらないだろう。とはいえ、サムスンをめぐるスキャンダルについて厳しい見方をしている国民は多いようで、企業のコンプライアンスなど今日の市場経済に普遍的に求められる規範意識が社会に育って来ているようにも見受けられる。そもそも、この疑獄が明らかになったのも元幹部のいわば内部告発によるものであったのだし。

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